27年なんとなくで生きて最終学歴が博士後期課程単位取得退学になるまでの話

 2021年3月末に博士後期課程(以下博士課程)を単位取得満期退学(以下単位取得退学)することになり、良い節目だなあと思ったので自分の人生を振り返っていく。半生を……反省!w

 自己満足の産物なので読むに堪えない駄文なことは了承して本文に入って欲しい。

 まず初めに、タイトルを見てブラック研究室で心を病んだ博士課程が大学を去るような内容を想像した人には残念ながらマッチしない内容になることを明示しておかなければならない。僕が所属していたのは超ホワイト研究室だった。個人的に人生で大変なことがあったわけでもない。あまりに平凡で読み終わった後に時間の無駄だったと思うかもしれないので注意して欲しい、くらいの保険をかけておきたい。僕が単位取得退学を選択することになったのは偏に僕が怠惰でかつ研究が好きになれなかったからだ。

 博士課程の単位取得退学という稀有な選択に至る理由は大学在学9年間だけに収まる話ではないと思ったので27年の人生を振り返ることになってしまった。

 このブログを楽しめるかもしれない人を列挙しておく。

・博士課程に興味がある人(ここでの興味はいろんな意味に当てはまると思う)

・他人の人生の話が好きな人

・オタク

 ここまで読んで察しのいい人はわかると思うがあまり真面目な話をする予定はない。爽快でロジカルな展開があるわけでもないので、何が言いたいのかよくわからない怪文かもしれない。オタクのクソ長い自分語りなので目次を見ながら興味がない部分は読み飛ばしてほしい。我ながら無駄に長いのでつらい、なんと21000字を超えた、シナリオライターとかの仕事ありませんか。高校卒業まではいわば設定資料集みたいなものだと思ってくれて構わないので後に読むのもいいかもしれない。オタクの人生に興味があれば全部読んで欲しいが、イベンターオタクの変遷のみに興味があれば3.3節からで十分である。なんなら大学院進学後の4章だけ読んでもらっても構わない、というかこのブログはそれでよかったのかもしれない。記憶の限り全てを書いたのでこのブログを読むと僕のことが8割くらいわかる。

 

 それでは対戦よろしくお願いします。

 

 

最終学歴が単位取得退学になるまで

 自分の怠惰を受け入れて博士課程単位取得退学を選ぶに至るファクターとして考えていることをバシバシと書いていく。バシバシ書くのでそれ書く必要あるのかみたいな話にも脱線しつつになると思うがそんな寄り道も楽しんで欲しい、というかそっちが本題なのかもしれない。

 

1. 本ブログの趣旨

 

1.1. 単位取得退学の条件

要約:単位取得退学は中退じゃないよ!(顔真っ赤)

 (めちゃくちゃ一応の大前提として大学生学部4年間、大学院生修士2年間の後に来るのが大学院博士課程の3年間で、博士号を取得するまでに原則9年大学に在籍することになる。卒業する歳が浪人留年なしで27歳なので人生の1/3を大学で過ごしたバケモノになる。)

  まず初めに単位取得退学というのが馴染みのないワードだと思う。字面だけ見れば単位を取得して退学するのだろうとわかるが、単位を取得してしまえば修了できる学部や修士課程に単位取得退学はない。(はず)

 単位取得退学は「3年以上博士課程に在籍し卒業に必要な単位を揃え」「単位以外の卒業要件を満たせなかった」場合に選択することができる。

 博士課程が取る単位は学部や修士と同じく講義単位と卒業研究の単位である。ただし講義は1,2つであとは研究単位になる。研究単位は日々の研究を指導教員に認められ、3年目の博士論文予備審査を通過することで取得が完了する。(細かくは知らんし予備審査については大学や研究科によると思う)そして、博士課程には単位以外の卒業要件として「博士論文の本審査」や「査読付き論文の投稿」などがある。

 また単位取得退学後1年以内に要件を満たして再度博士論文審査を受けることで博士号を取得することができる。

 

1.2. 本ブログの趣旨

 端的に言って、僕が単位取得退学することになったのは「とりあえず講義の単位は取って研究もして博士論文を書いたのに」「査読付き論文を必要数卒業までに出さなかった」からである。そんなことがあるのかと思うかもしれないがあったのでしょうがない。

 理由はいろいろ考えられるがなぜそんな中途半端なことになってしまったのか、そもそも何故そんな半端者が博士課程に進学してしまったのかをこのブログから感じながら読んで欲しい。「研究の成果は出したのだから論文を書けば修了できたのだし怠惰以上の理由はない」と言ってしまえば簡単だが、なぜそんな怠惰なバケモノが生まれてしまったのかを。

 

2. 家庭環境

 

要約:低学歴一族生まれ放任主義育ち

 博士課程まで進学するような人間を輩出するような家庭だから特別な環境で育ったのを想像したかもしれないが、特筆すべきところがない。なさ過ぎて逆に言い訳がましく家庭環境を説明したくなる。というのも博士課程まで進学する人は当たり前のように親族が研究に従事していたりする。たまに家に本がたくさんあると良いみたいな話を聞くけどそういうのもなかった。そのことがどういう影響を与えるか経験がないのでわからないが、ないよりは良い影響がありそうじゃないですか。もちろんそんな環境じゃなくてちゃんとやれた人も多くいると思うがそれはたぶんすごいことなので誇ってほしい。とにかく、今の僕が客観的に見て自分の家庭で育った人間に博士進学をあまりお勧めしたくはない。

 

2.1. 家族構成

 両親は共にド田舎の農家出身、母親は県で1番頭の悪い工業高校、父親は県で2番目に賢い公立高校の出身らしい。村単位で名字が一緒だし自分の知っている範囲の親戚で大学を卒業したのは自分だけというレベルのド田舎農家である。父方の祖父の口癖は役所に口をきいてやるからこっちで就職しろ。ただ、父親はなかなか優秀な人間だったらしく高卒なのに運よく大企業に入社しド田舎を脱出することになる。兄弟は2つ上の兄が1人でこれがまたクセのある人間だが長くなるので大学を2留中退したオタクということだけ紹介しておく。というか仲が悪いわけではないがそれ以上のことを僕もよく知らない。

 父親は自分が物心ついたころには毎日残業と言って日を跨ぐまで帰ってこず、土日も家にいないことが多かった。実際何をしていたのかは知らないが、とにかく父親と何かをした記憶がほとんどない。そのことを説明するときのエピソードとしてたまに話しているのが、「日記に全く父親が出てこないことを担任に心配された」「社宅の他所の父親が夕方に帰っているのを見て母親に「あの人は体調不良で帰ったのか」と聞いた」とかがある。そんな父親が自分に与えた数少ない影響はテレビゲームくらいで、3,4歳くらいのころから家にあったFC, SFCを触っていたと思うがそれくらいである。とにかく家庭に干渉しない父親だった。仲が悪いわけではないが本当に父親のことがわからないので今でもどうやって話せばいいかよくわからない。

 母親はよく言えば優しい人だが悪く言えば過保護気味で心配性な人だと思う。そんな母親だったからかはわからないが兄弟ともに大人しく手がかからない子供のふりをしていたような気がする。上述した通り頭があまりいい人ではないのだが、それに気付いたのが自分が小学生くらいの時だった気がするので相当である。短期間やっていたコンビニバイトですら満足にこなせないことを本人が嘆いていたので本当に心配になる。母親関連で一番印象に残っている言葉は「酒とたばこは20歳まで」。

 そんなこんなで父親は家にいない母親は頭が悪いこの家庭の教育方針は放任主義的で、何かをしなさいだとか何かをした方がいいと言われた記憶はほとんどない。僕の好き放題の原点がここにある。母親はちゃんと育児をしていたのでネグレクトとまでは言わないが、個人的な理想の家族関係と比べると少し希薄だ。

 

2.2. 裕福 or 貧乏

要約:たぶん普通

 これについては本当によくわからないのでほぼ愚痴である。大企業に勤める父親の年収だけ見れば裕福な分類、中の上あるいは上の下くらいにはなると思うがそれを実感できるような体験はほとんどなかった。大学4年の時に諸々の理由から奨学金の書類を揃えてるときに初めて父親の年収を知ったがなぜ奨学金を取る必要があるんだろうと思った。

 買い与えられる衣服は今思っても安物だった。家で食べる肉は基本鶏の胸肉だったし、外食は安いチェーン店しか記憶にないし、宅配ピザは3人で1枚だった。家は社宅なのでたぶん比較的安い。スポーツ少年だったが道具を買ってもらいに店に行っては母親が苦い顔をしていた記憶が強いし、中学で本当は硬式野球をやりたかったけど月2万の月謝が高く感じて親に頼めなかった結果野球はやめた。陸上はあんまりお金がかからなくてよかった。兄が地方の公立大学に進学したのを期に、高2で何故かバイトをして遊びと部活にかかるお金を自分で稼いでいたのもよくわからない。(公立の進学校で学年にバイトをしている生徒が数人しかいなかったのでバイト許可を担任に取りに行ったとき本気で心配された)家族での旅行はド田舎の実家に帰る以外にはほぼなかったと思う。

 自分の家のお金周りが全く理解できていないのだが、まとめると貧乏ではないが"ケチに"育てられたんだろうと思っている。僕が育った環境で周りを見た場合そう感じたという話なのでそんなもんじゃない?と思った人がいたら教えて欲しい。なんだかんだありつつ大学の学費は出してもらえてるし、本当に貧乏な人が見たら怒るかもしれないがそれはごめんなさい。入学するまで授業料は出してもらえないんじゃないかと思っていたし、バイトで学費を稼ぐことも考えてたが幸いそこまで貧乏じゃなかったらしい。

 

想像していたより多くの人に読まれたのでこれから読む人に誤解されないように追記するが、自分はこの家庭環境は"良い環境"だったと思っている。まっとうに育ててくれた親には感謝しているし、兄には割と良い影響を受けている。この章では、大学・大学院への進学を選択する際に親に進学を進められたり何かをアドバイスされたりはしなかったし、されるような家庭ではなかったという話がしたかったに尽きる。

 

3. 大学院進学以前

 

 大学院進学までの人格形成過程をたどっていく。

 

3.1. 義務教育終了まで

要約:スラム街での諦め癖半端者人格形成、オタク人格の芽生え、たまたま高校受験が上手くいく

 小3までは父親の転勤で各地を転々としていた。ありがちな話だがそういう環境で育ったため人間関係の構築には障壁がない(得意とは言ってない)が、自主的に・積極的に関係を維持するのが苦手な人間になった。めんどくさく感じてしまう。それが根本的な原因で彼女にフラれたりする、つらい。

 小3で大阪に移住しそれ以降は父親は単身赴任で大学学部卒業までは大阪で過ごすことになる。まあまあなスラム街で包丁持った通り魔が出たり、中学の頃同級生が全国ニュースデビューして全校集会が開かれたりするようなところだった。あまりにも柄が悪くその前に住んでいた地域の治安の良さとのギャップもあり不登校になったりもした。卒業式のとき中学校での抱負として「勉強してまともな高校に行ってちゃんとしたサラリーマンになります」と言って父兄をざわつかせた、厨二っぽいが大真面目だったと思う。オタクっぽいエピソードでよくないですか。あと、家の前の一級河川が夏場あまりにも異臭を放つので、夏休みの自由研究で水質調査をやって環境問題に興味を持ったのが地味に理科への興味につながり理系に進む最初のきっかけになった。ちょっと真面目な話だ。小6で軟式野球チームに入って中1まで続けた。

 中学は他の小学校からさらに柄の悪いのが合流して地獄だったので適応するためにモラルがゴリゴリ削れた。学校を雑にサボるようになって金曜日はほぼ定休日になってた。上述したが陸上部に入った。が1年で辞めた。地区大会で2位くらいの成績が出ていたが地区で2位じゃこの先ないでしょとさっさと諦めてしまった。野球も似たような感じで辞めた。陸上も野球も楽しかったはずだが、急に熱が冷めてしまう悪癖がこの頃からある。

 運動を辞めて時間を持て余した結果同級生のオタクと話すようになりアニメを見るようになる。初めて見た深夜アニメは灼眼のシャナⅡです。オタクグループは陰な人と道化をやってる人がいて明るい陰キャの立ち回りはここで学んだ。オタクグループはみんな塾に通っていて偏差値が高く、勉強しなきゃいけないことに中2終わりに気付く。あと好きだった女の子が頭がよかったので勉強した方がいいと思った。塾はお金かかるなあと母親に塾に行かせてくれと頼むのが憂鬱だったのを覚えている。偏差値~50くらいの学校を目指していたが、初めて塾でまともな授業を受けたら勉強が思ったより楽しくなってもりもり勉強してたら~70の高校に受かった。(電車通学したくなさ過ぎた結果50の次が70でかなり背伸び受験だった)

 余談だがこの頃本当は声優になりたいと思っていたが将来の確約されない専門学校に行くお金はないなあと思って諦めた。オタクのみなさんそんな時期がありませんか。

 劣悪な環境の中で、そこそこまともなオタクグループと仲良くなったおかげで軌道修正に成功して高校受験でこけずに済んだ、みたいな話でした。みなさんはどうやって義務教育後の進学先を決めましたか。

 

 節目ごとに自己肯定感グラフを更新していく。実質人生のやる気バロメーターだと思ってもらえればいい。最大最小は±10に設定した。

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義務教育までの自己肯定感遷移

  小6~中学卒業までで運動も勉強もそこそこできる自分に満足し、自己肯定感を高めた。

 

3.2. 高校

要約:スラムからの脱出、上流層への仲間入り(?)、大学受験も過集中でなんとか突破

 身の丈に合わない中学の友達もいない高校に進学したので良い意味でも悪い意味でも環境が大きく変わった。育ちがいい人が多くてびっくりした。最初志望大学の話でみんな京大とか医学部とか言ってた気がする。僕は無知で大学なんて東大くらいしか知らなかったのであわあわしてた。実際自分の学年は現役浪人合わせて京阪神に4,5割くらいが進学してた。(大阪の公立高校なので東大を選択する人が少なかったり、私立は早慶上理やMARCHより関関同立をみんな受けていたのが関西ローカルって感じ)

 部活は陸上と野球やり直したかったり、どうせなら新しくテニス、バスケやバレーが始めたかったりしたはずなんだけど滲み出す陰の空気と女子部員の顔面でバドミントンに吸い込まれた。本当は吹奏楽に入りたかったけど文化部はキャラじゃないと謎の意地を張ってしまった。居心地がよかったので引退まで続けられた。団体で地区優勝したのが高校3年間で1番良い思い出だと思う。あと同期がみんな頭良くて東大1人京大3人阪大2人府大1人早稲田1人に進学するような環境だったので受験のとき参考書でいろいろ頼れたのは大きかった。

 授業は正直全然ついていけてなかったし食らいつく気概もなかったので赤点前後の点数ばっかり取ってた。文理選択は周りがみんな就職がいいから理系にした方がいいって言ってたから理系にした。無知なので有識者に従うしかなかった。本当は軽い気持ちで文学部に行きたかったし、経済学部とかに行った方が学部卒で良い就職あったのではと今では思うが、文系はいろんな意味で向いてなかったと更に強く思うので良い選択だった。

 

 高3でようやくこのままではやばいと尻に火が付き塾(東進衛星予備校)に通い始めた。初めて受けたセンター模試は全然解けなくて鉛筆転がした方が点数取れるんじゃないかレベルだった気がする。英語は全然わからんくて途中で眠くなって寝た。通年で取ったのは物理化学だけで夏季冬季講習でセンター英語と数学とか。その時点での学力を見て最初は大阪教育大学(偏差値50台の国立の教育大学)を目指してた。小中の杜撰な授業を受けて自分の方がいい教師になれるだろうみたいなモチベーションだった。例によってやり始めたら集中してやるようになるのでそこそこ伸びて旧帝を目指せるくらいの学力が付いた。特に物理の伸びがよくてテストで毎回赤点、20点以下しか取れなかったところから学年10位以内に入るくらいになった。(夏休みは毎日15~17時間勉強していたが楽しかったので全然苦にならなかった)別に教育大に行かなくても教師にはなれるからと思い志望校を上げた。高校物理が楽しかったのとキャンパス見学で物質科学に興味を持ったので大阪大学の理学部を選んだ。半導体とか超伝導とかになんとなくワクワクしたのでそういうのを専門にしたいと思った。本当の決め手は家から一番近いから。

 大学受験の戦略としてやりたい勉強だけやるを徹底してた。というのも数学は中学の時点で怪しかった上に塾で授業を取らなかったのもあり全然できなかった。どれくらい数学をやらなかったかというと青チャートを1割もやらずに投げだしたくらい。その状態で二次試験を通過するために数学が0点でも合格者最低点に届くようにすることを考えていた。(今は知らないが当時の阪大の理物はセンター8割、二次は物化満点英語5割くらいあれば合格できた)この戦略がハマり大学受験は成功したが、高校数学レベルでこけていると大学で頭を抱えることになるのをこの頃の僕はまだ知らない。高校数学はできた方がいい、本当に。

 滑り止めについては受験料が勿体ないし個別に対策するのもめんどくさかったので私立は受けなかった。後期はセンターだけで受かる地方国立農学部で滑り止めは盤石だったのもある、こちらになった場合父親のド田舎実家から大学に通って農家になるつもりだった。

 

 高校3年間は勉強・部活・人間関係どれを取っても普通の高校生活だったんじゃないかと思う。それでいっぱいいっぱいでほとんどアニメが見れていなかったのでTwitterとかで高校生オタクを見るとすごいなあと思う。サボり癖遅刻癖は相変わらずだった。古典の授業出席数が1回足りなくて卒業させられないと言われ、センター試験後に補習として古典の単語帳を3回丸写しとかいう課題を出されたのが本当につらかったのを今でも覚えている。

 

 ここまで全部読んでいる人は長かった割に博士課程に繋がりそうな話はほとんど出なかったのでもしかしたら読み損と思うかもしれない。よく見る大学生の苦労話には毒親やらすごい努力やらの話が出てくるが平凡な家庭で育った人間が突然博士進学を決めてしまうこともある、と言いたいだけの前置きに駄文を弄した。お付き合いいただきありがとうございます。大学生編に入ります。

 

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高校卒業までの自己肯定感遷移

 勉強も恋愛も上手くいかない高校生活だったが大学受験の成功により自己肯定感を高い水準でキープ。滑り止め進学や浪人をしていたら危ないところだったと思う。

 

 

3.3. 大学・学部

  学部生時代は1,2回, 3回, 4回生で結構生活が変わったので別々に話していく。

  

3.3.1. サークルとバイト漬けの1, 2回生

 サークルとバイトで週の予定を埋めて生活、勉強に取る時間はほとんどなかった。教員免許を取るつもりだったので教職の講義のせいで1回前期は週30コマ講義があって大変だった。しかし要領はよかったのでなんとか単位は落とさずに済ませられた。サークルは週1, 2回のバドミントンと不定期の遊戯王サークル。バドミントンサークルはインカレで100人弱規模の合宿をやるような巨大サークルだった、ウェイ!wって感じのサークル。3つくらいあるバドサーの中でそのサークルを選んだ理由は初めて行ったときに見た女の子に一目惚れしたから。遊戯王は同期が立ち上げた新設サークルで、勧誘されて久しぶりにやりたくなったので入った、陰!wって感じのサークル。バイトは1回時個別の塾講師、2回からは焼肉屋をやってた。2サークルとも飲み会とか含めまあまあお金がかかったのでそのためにひたすら稼いでた。焼肉屋はまかないで死ぬほど肉が食べられたので食費も浮いて最高だった。2回生になるときに親の社宅の都合で家を離れることになったので大学の裏で一人暮らしするようになった。家賃3万ちょいのボロアパート。

 バドサーに所属している以上純粋に上手くなりたかったのと、上手い方がモテると思ったのでひたすら練習した。サークルとしての活動は週1, 2回だったけど個別で体育館に通ったりして多いときは週4, 5回バドミントンしてた。自分以外にもそれくらいのモチベーションの人間が集まったサークルというのも稀有な環境だったと思う。あとウェイについていくためにどちらかというと陰キャで斜構だった人格をかなり矯正して陽の自分を作った、頑張った。そういえばたくしーというHNもこの頃Twitterアカウントと共に生まれた。元々自己紹介するたびに言われてうんざりしていたので嫌いな呼び名だったが、ウェイっぽくてニックネームとして親しみやすい気がしたので頑張って受け入れた。

 遊戯王サークルで仲良くなった悪いオタクに、悪いTwitterに引きずり込まれた。shooting star全盛期懐かしい。そのオタクの影響でラブライブ!にハマった。2回生になってすぐのアニメ1期後、スクフェスリリースのとき。クソみたいなandroid端末でシャンシャンスクフェスやってたの懐かしい。それを期にあんまり見なくなっていたアニメも少しずつ視聴再開した。

 講義は最低限単位を取れるようにだけ勉強してたけど専門の講義はわからないなりに楽しかった、言語と一般教養は本当に苦痛だった。全然講義を理解できてなかった割に4年間で取れなかった単位は起きられなくて出席が足りなくなった専門1コマだけだった。教職講義と学校ボランティアみたいなのの単位を取り切ったあたりで自分が教師になるのはないなあと思い辞めた。塾講師もやった上で「学ぶ気のない人に勉強を教えるのは不毛だし、そもそも他人の家の子の面倒が見れるほどは子供が好きではない」という思想になってしまったのが一番の理由。

 2回の後半でバドサーの方がめんどくさくなってくる。楽しかったが陽キャをやるのと後輩と仲良くするのがめんどくさくなってしまった。最後の機会だと思って春の合宿で一目惚れした女の子に丸2年かけてやっと告白した。1月後の3回生の4月、自分の誕生日にokをもらった。たぶんこのときが自分の人生で一番自己肯定感が高かったと思う。

 

3.3.2. 迷走する3回生

 彼女もできたしサークルでやることはやったな~と満足したのでサークルはあんまり頻繁には行かなくなった。同期とは相変わらず遊んでた。講義と学生実験は結構大変だった気がするけどやっと一般教養から解放されて理学部っぽくなったので楽しかった。モチベーションが高すぎて他学部の興味がある講義を受けたりもしてた。

 この頃からやっぱり面白いし研究ちゃんとやりたいな~と思うようになった。親にお金をかけさせるのは申し訳ないのでさっさと就職して稼ぎたい気持ちもありコンサル系で就活をやったけど、なんか違うな~となって最終面接でブッチした。大学院で博士まで行くことが決まる代わりにそれなりのお金が毎月貰えるプログラムがあることを知ってそれなら研究もできるしお金も稼げるしこれでええやんと思うようになった。ここで初めて博士課程を意識し始める。

 3回生の最後2015年の2月に遂にドはまりしたラブライブ!5thでオタクライブデビューした。初めて観光で行く東京埼玉に死ぬほどウキウキしたし、ライブはKiRa-KiRa Sensation!で号泣するくらい楽しんでた。翌年の6thが即楽しみになってた。ライブに行ってやっと声優も認識して興味を持つようになった。周りの同年代オタクと比べると比較的遅咲きだと思う。ラ!はもっと早く追いたかった反面、オタクどっぷりになるのがもう少し早かったら人間関係がないがしろになっていたと思うので遅くてよかったと思う。

 

3.3.3. イベンターたくしーが誕生する4回生

 研究室配属は成績が普通だったので人気研究室だった第1志望に落ちて第3志望の研究室になった。ゆるゆるホワイト研究室で、院試が終わる9月まで研究をやらせて欲しいといってもやらせてくれないような研究室だった。付き合って1年になる4月の誕生日前日に彼女にフラれた、誕生日プレゼントをもらった上でフラれたので詳しくは省くが僕が本当にどうしようもない人間であるのが原因だったと思う。誕生日に誕生日らしいことをしたのがこの年が最後だったので、今でも毎年誕生日はこのときのことを思い出してる、恐ろしい呪いだ。アドルフ・ヒトラーは悪だし、久我山八重ちゃんは腹黒い。

 5月にラ!つながりで三森さんに興味が出てたところ学部後輩のTwitterの悪いオタクに騙されてミルキィホームズのライブに行く、とろとろどんどん。関東に行くついでに前々日にあった分島花音さんのライブにも行った。SelectorシリーズのWIXOSSを見ろ。ライブに行くのが楽しくなってきた上に彼女とも別れたので関東に興味が出てきた。

 博士課程に進学することを考えたときに所属研究室の先生が博士卒業前に定年を迎えることから他の研究室を探すか考えている旨をツイートしたところ、上述のTwitterの悪い後輩オタクに大阪で開催される東大の院試説明会をそそのかされ参加、即受験を決意。そのときのツイートが奇跡的に発掘できたけど悪いオタクのアカウントが鍵だった。

 院試は専門講義の単位が取れる程度の学力が身についていれば問題なく受かるので、特別な勉強はせず過去問をやりながら復習するだけだった。英語がネックだったが専門ができていれば0点でも受かるので上のツイートみたいなことを言っているがほとんど勉強しなかった。

 東大院試筆記試験がちょうどアニサマの週、その翌週が面接試験だったので1週間関東のネカフェで寝泊まりしてアニサマに初参加したのも懐かしい。初めてのアニサマ楽しかった。お金がない僕にチケットを安く譲ってくれたTwitterの大学の先輩オタクさんに感謝。面接後、院試合格がその日中に学内掲示板で発表されて浮かれて飲みに行ったら帰りの夜行バスを逃した。翌日に控えた阪大院試に間に合わなくなりブッチした。おかげでどちらに進学するか迷わなくて済んだのでよかった。(よかった?)

学歴ロンダリングという言葉があまり好きではないので断っておくが学部の講義をまともに学ばなかった人間は内部学生であっても順当に院試に落ちる。実際僕が入った研究室では同期になるはずだった東大生が落ちていた。そんなこともあり学部から東大生でなければ東大生ではない、みたいな話を聞くと首を傾げてしまう。大学院進学は難しくないがロンダを馬鹿にできる程簡単なわけでもない、はず)

 

 院試合格後は研究もそこそこに行けるオタクイベントを探しては参加してた。イベント通いが楽しくてウキウキだったけど12月5日内田彩2ndライブの日にどん底になったりもした。(μ'sのラストライブ発表)そういえば有明コロシアムあれ以降行ってないなあ。僕を騙したオタクはイベンターというわけではなかったので、基本ソロ参加だった。おかげでこの頃知り合ったTwitterのオタクとは未だに交流がある。この頃のTwitterの1番の思い出は二日酔いでイベントに行ける状態じゃなかったのでチケット流そうと思ったら、探しているオタクがFF外の"牧野由依の膣肉ソーセージ"(現:ソーセージP)とかいう最悪な名前のオタクしかいなかったこと。当時はこんな奴に渡すくらいなら捨てた方が良くないか?と思ったりしたけど未だにツイで絡みがあるしたまに会う。

 イベノのリンクも貼っておくがこの頃は本当にラ!声優関連のイベントがあれば手あたり次第みたいな行き方をしてた気がする。この後もイベンター活動について話していくことになるので確認すると理解が深まるかもしれない。(深める必要はない)

www.eventernote.com

 

 そんな感じで東大院試とオタクイベントで生活が一変し始めた4回生、大阪を離れて活動拠点を関東に移せばどうなるかは火を見るよりも明らかであった。イベンターノートを覗いた人は気付いていると思うが生活の中心はオタクイベントになっていく。学部3回生までの内容は割と人生っぽい話をしていたのに突然オタク活動の話ばかりになる。自分でも振り返りながら少し困惑しているがそれくらいオタクイベントに通うのが生活の中心になってしまっていた。

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学部卒業までの自己肯定感遷移

 基本的に何もかもが上手くいき、高すぎる水準でキープされた自己肯定感を糧にバグった自意識で東大院試を受験、合格してしまう。

 

 

4. 大学院進学後

 

  というわけで無事東京大学大学院に進学、関東に移住した。ここまでで10000字を超えてしまった。完全に人に読ませるものではなくなってきた。まだ後5年振り返らなくてはいけないことに正直うんざりしている。

 研究室はホワイトでコアタイムはなく研究について詰められることもあまりない学生の自主性を強く信頼(期待?)している環境であるため、成果をたくさん出す学生と出さない学生に二極化している。僕は博士課程に進学するくらいなので比較的やる気はあり前者になりたかったが……。

 

4.1. 限界イベンターに突然変異するM1

 関東移住後即大きな節目に遭う。μ'sファイナルライブである。引越し作業も手に付かず布団も買わずに凍えながら3月末を過ごした。4月1日は入学ガイダンス後の懇親会を抜け出して東京ドームに走った。精神的なダメージが大きく、雨の日にボーっと運転していたら買って2週間のバイクでスリップして派手に転倒したのも懐かしい。ラストの4カ月前の発表かつ人気絶頂の中終わったので当時は混乱が強かったかもしれないが、今ではあれほどきれいで潔い幕引きもないなあと思う。(その後汚い話があったことは言うな)

 そんな感じでμ'sの終わりに立ち合いオタクとして抜け殻になるかと言えばそんなことはなく、相変わらずμ's声優イベントには参加、ミルキィホームズにより深めにハマり、大阪時代は気になりつつも参加できていなかったTrySailとバンドリ、故ESDのイベントに参加、他にもフェスや気になる声優のイベントがあれば手あたり次第行っていたらイベンター2年目にして参加数が100を超えることになってしまった。関東に移住して友達がいなかったのがイベントに依存していく最大の要因だったと思う。ちなみに5年間通った大学院に友人は1人もいない。(たまに会う阪大からの同期を除く)イベント後にTwitterのオタクと打ち上げをするのが楽しみになったのはこの頃。

 

 一方学業の方は1年目にして暗雲立ち込める、といった状況だった。元々気になるテーマがあって選んだ研究室だったが僕が博士課程を考えていることから、ちょうどその年に助教が始めたプロジェクトに関わるチャレンジングなテーマを提案された。なんかすごそう、東大の先生が提案するんだから学生がちゃんとやれるレベルなんだろう、と軽い気持ちでそのテーマでやっていくことを決めた。7月頃に「博士まで行くことを前提にM1の10月から自立できる程度の奨励金がもらえるプログラム」にそのテーマで応募することになるのだが、その申請署(学振の申請と似たようなフォーマット)を書いている時点で自分に与えられたテーマがチャレンジングではなく、無謀と言った方が正しいテーマであることに気付く。(やろうとしていることは面白いと思う)

 プログラムに採用されなければ自立して博士課程に行くことが難しいため修士で大学を出ようと思っていたのだが、それなりの倍率を潜り抜け不運にも(?)採用されてしまった。この時点で博士課程が上手くいかないだろうと思っていたので審査員より聡明だったと言える(?)。それでもプロジェクトの始まりでやることはあったので手を動かしている間は結構楽しかった。

 

 そんなこんなで奨学金生活を半年で脱して、返還不要の奨励金生活になり、親に大きく頼ることなく大学院生生活が始められることになった。どうでもいいが少しでも遊びたいがために選んだ今も住んでいるボロアパートはなんと家賃2.4万円である。最寄駅から秋葉原に20分で行けるので破格だ。家賃5万の家に住んでいるオタクと比較しても毎月イベントのチケットを3枚もしくはCDを20枚多く買える、素晴らしい。

 

4.2. 危機感を抱くM2

 息も絶え絶え研究の方針を決めて研究活動を始めたものの5月の学振申請で心がバキバキになる。教授に内容を激詰めされて凹んだとかいう話ではなく、研究室のこれまでのテーマとは大きく違う新しいテーマであるがゆえに先人の申請書を参考にすることもできず、助教も明らかにそのテーマに関する研究の進捗が悪かったため助言も貰いづらかったからだ。先立つような結果ももちろんなかったため当然審査の結果はかなり悪かった。ほぼ独力で完成させた申請書の結果が悪いことはやる気と自己肯定感を著しく削った。ブラックな研究室では逆に得難い経験だったかもしれない。

 そんな状況ながらもどうにかこうにか修士号を認められる程度の内容をまとめることには成功した。しかしそこから博士課程で3年間拡げられる研究が定まらずかなり焦燥感に駆られた。見当がつかないことはなかったし、実際後にその内容でグループ内で賞を取った人がいるが、そのうえで自分にはその研究に意味も面白味も見出せなかった。この頃から研究はしんどい割合の方が多い。

 

 イベンターとしてはミルキィホームズ、ESD、TrySailを中心にイベントに参加。バンドリのアニメがクソおもんなくて他界、ブシロードの新コンテンツはもういいと思っていたが4月のレヴュースタァライトのプロジェクト発表に手のひら返し。それを期に小山百代さんに興味を持ってサンドリオンにもちょこちょこ行ったりしてたのが印象的か。LAWSON presents TrySail Live 2017 Harbor × Arena in KOBE Second Dayは最高のライブだった。この時初対面のオタクが多い打ち上げに参加したが、そのときのオタクが今も1番よく一緒にいる。そして2017年の末、イベンターとして2度目の節目を迎えることになる。この頃一番精力的にイベントに参加していたESDから推しであった中島由貴さんの卒業、続いてグループの解散である。ラ!のときと違い、自主的に追い始めたグループであったこと、毎月の定期公演が生活にかなり密接であったこと、これからもっと人気が出る可能性を感じていたこともあり、かなりきつかった。キツ過ぎて中島由貴さんの卒業公演翌日のグループ活動休止ライブは行けなかったし研究室ももりもりサボった。そこから約1ヵ月後、追い打ちをかけるようにミルキィホームズの1年後活動休止が発表された。思い出すだけでつらくなってきた。この頃からアイドルや声優ユニットはすぐ解散するから2つくらい同時に推しとくのが丸いと思い始める。

 

 研究しんどいけどプログラムの性質上博士進学はしなきゃいけないしなんとか頑張るぞ~みたいな気持ちでとりあえず乗り切った修士2年間。修論の謝辞には一番僕の心に平穏をくれた麻倉ももさんへの感謝を記した。本当は中島由貴さんへの感謝にしたかったし、修士号証書持ってチェキ撮りたかった。

 

4.3. どうにか実のある研究がしたいD1

 なんかやってれば実になるだろうといろんな手法を試しては失敗する日々。上手くいかない研究に若干の焦りはあったが新しいことを色々試すのは面白かったし、何より博士課程は3年あるという心の余裕があったので手を動かすことを楽しんでいた。ただこの年も新しく作ったテーマで学振申請するも撃沈、評価は前年より良かったもののここでもまあまあのダメージを受けた。1カ月前後かけて作る申請書が落とされるのは落ちると思っていてもつらかったので研究費の申請を一生続けるアカデミック人は本当にすごいと思う、僕には無理。

 修士の研究内容を引っ提げて初めての国際学会でフランスに行った。海外に行くのも初めてだったので自分の発表以外は本当にウキウキだった。到着した空港で電車に乗る時点で乞食に道案内するから金をくれとウェルカムカードをもらった時と、ルーブル美術館の周りで黒人に偽造入場券の手売りをされた時は感動した。自分の発表は原稿棒読みで質問の英語も全然聞き取れなかったが、別に研究者になるつもりも海外で活躍するビジネスマンになる気もないしどうでもいいと開き直ってた。誰でも一度は名前を聞いたことがある有名な海外の大学や某宇宙開発で有名なアメリカの連邦機関の人の発表も聞く機会があったが、研究内容も発表の仕方も期待していたより普通だった。(どの口で言うのか)自分の発表がカスだったこと以外は学会も観光も楽しかったので、研究費で毎年こういうのがあるのは研究者をやる利点だなあと思った。(小並感)

 年度末に2カ月半某大手メーカーにインターンシップに行った。自分の設定した研究テーマから離れ、与えられた課題を解決する研究生活は非常に心穏やかであった。しかも与えられた2つの課題に対してどちらもかなり成果を出すことができめちゃくちゃ褒められたのでどん底に沈みつつあった自己肯定感がめちゃくちゃ回復した。おかげでインターンシップ後数カ月間は研究のモチベーションもめちゃくちゃ高かった。そのメーカーで就活することはなかったがこのときの経験で就活の方針がだいぶ決まったので本当に行ってよかった。

 

 ESDはいなくなり活動休止が決まったミルキィホームズに対してはモチベーションが高くなかったので必然的に残りのTrySailが中心になった。TrySail 2ndツアー13公演で初めての全国ツアー全通、それぞれのソロ活動もできる限り追った。2ndアルバムは今でも好きな曲が多いし、夏川椎菜さんのパレイドとかいう超絶名曲もこの年生まれなのでグループに対する信頼感が半端なかった。22/7計算中が放送開始しデビュー当時からMVで気になってはいたものの何をやってるかわからなかったコンテンツにやっと触れることができた。愛美さんの妹がいるらしいと聞き野次馬根性でアニサマのけやき広場のミニライブに参加し、浅倉唯(旧:花川芽衣)さんに一目惚れしたが、他のメンバーは認識できずに終わり計算中だけ追っていくことになる。年末に定期公演が発表されるも1月落選後は応募するモチベーションも沸かず年度を終えた。2月にミルキィホームズファイナルライブを迎えるがここではダメージはさほど大きくなかった。活動休止まで1年の猶予があり佳境を過ぎたコンテンツとして個人的には満足のいく最期を迎えたと思っているからだと思う。ミルキィホームズで出会ったオタクは散り散りになっているが、今でもTwitterで一番絡みがあるのはミルキィオタクだし、キャンプ行ったり色々遊びに行ってる。ファイナルライブ後の解散時に「またTwitterで」つって別れたの思い出してエモくなってる。

 

 まだ博士1年であるという安心感、イベンターとしても特に憂いなく大学院生活で一番穏やかな1年だったと思う。この調子が続けば問題なく博士課程を修了できていたと思う。

 

4.4. なんかいろいろどうでもよくなったD2

 この年の末、遂にほぼ独立していた研究生活とイベンター活動が悪い意味で交差し始める。単位取得退学の話をするのにわざわざオタク話を振り返っていた理由がこの年から。

 研究生活は相変わらず色々試しては上手くいかない日々だが序盤はインターンの好影響でやる気は十分だった。3度目・最後の学振申請はめんどくさくなって前年のものをほとんどそのまま出したので落ちてもダメージはなかった。(申請分野を変えたら評価がかなり上がったが結局落ちた)

 イベンターとしては年の初めから続いていたTrySailのツアー20公演をさも当たり前かのように全通、ソロ活動ももりもり追って楽しい楽しいつってた。6月遂に身内オタクが22/7の定期公演に連番当選し初めてのソロイベントに参加した。テイストは全く違うがESD以来の"アイドル"のライブを浴びて眠っていた何かが呼び起された。目当てだった浅倉唯(旧:花川芽衣)さんがこの頃すでに休みがちでいなかったのが悔やまれる。その時点ではまだキャラとメンバーの一致どころかメンバーの名前も覚えていなかったが、7月の定期公演とナナニジフェスに行く頃にはドはまりし、4thシングルの諸々の発表では軽率に涙した。藤間桜チャンネルにハマったりYouTubeにチョメチョメされた過去の配信をひたすら漁ったりした結果、肩まで沼に浸かってしまった。4thのリリイベ、個握にも参加し沼で泥だらけになりながら暴れまわった。しかし、過去の配信漁りにも飽きてきたころ遂に浅倉唯(旧:花川芽衣)さんの活動休止が発表される。それでも活動休止ならそのうち戻ってくるしアニメ化までに戻ってきてくれれば全然OKとこの頃は楽観的に考えていた。

 

 そして、12月。相変わらず研究で芳しい成果が出せないままでさすがに焦りが出てきた。論文を読むのすらつまらなくて苦痛になっていた。そんな余裕のない中、主観的には中途半端な内容を国際学会に出して欲しいと教授に言われ、全く気乗りしないまま発表してさらにやる気が削がれた。その帰り、浅倉唯(旧:花川芽衣)さんの卒業が発表された。推し始めて間もないグループなのにめちゃくちゃデカいダメージを受けた。間もなかったからこそもっと観たいものがあったからつらかった。なんかいろいろどうでもよくなった。卒業ライブとなった2019年BDライブで穴埋めで新メンバーが発表される光景を無感情で眺めた、浅倉唯(旧:花川芽衣)さんと仲が良かった高辻麗さんがこの日欠席だったのもかなりキツかった(そのまま彼女も活動休止に入りいよいよおしまいになった)。新メンバーさん声質が結構似てるからよく見つけてきたなあとは思った気がする、誕生日が2/27は絶対ヤってると思う。卒業後の12月定期公演の新メンバーソロパートも全然感情が沸かなくてつらかった。それでもツアーの決定は普通に嬉しかった。長い活動休止で浅倉唯(旧:花川芽衣)さんがイベントにいないこと自体には慣れてしまっていたので感情ぐちゃぐちゃ。

 年は明けて1月、22/7のアニメ放送が開始。個人的にアニメの出来は(堀口由紀子さんではなくなってしまったキャラクターデザインを除いて)満足できていたのでバンドリのときのようにアニメ他界はせずに済んだ。完璧とは言わないが新メンバーの声にもそこまで違和感を感じなかった。(可愛い側の斎藤ニコルの演技がもっと必要な内容だったらしんどかった)むしろめげずにこれからも応援していくぞ~という気持ちになっていた。

 コロナが上陸する。6thのリリイベも楽しみ遂にツアーが始まると思っていた矢先だった。2月24日に倉岡水巴さんまで活動休止。ツアー開始前日の2月26日のリリイベまではマスクを付けつつ開催されたが、その夜2月27日からイベント自粛が始まることが決まり、ツアーは始まらなかった。3月14, 21日には名古屋大阪公演も予定されており、2週間の自粛で終わることを最後まで期待していたが当然そんなことがあるはずもなくも霧散した。3/21の大阪公演予定日の翌日、大阪で高校の友人の結婚式に参加したがこの頃マスクも付けずに普通に人が集まっていたのが今では信じられない、その友人が医療従事者なのも笑ってしまう。良い結婚式だったなあ。

 研究は何か面白い結果を出そうという気持ちがなくなり、とりあえず卒業するために簡単に結果が出そうな課題を見つけてそれに手を付けた。すぐにそこそこ芽が出そうな結果が出てデータを見ながら苦笑いしてしまった。

 就活を始めていたが第1志望企業が業績悪化により新卒採用数を半減を決定し落ちてしまった。第2志望企業はマッチングした部門が希望と違ったのでモチベーションが下がり、加えて他県で行われる工場見学が2/26(察し)だったため辞退した。就活もどうでもよくなったので母親に「コロナでキツいから今年就職しないかも」と早々に連絡した。「しゃあないな~、頑張って」みたいな反応だった気がする。

 

4.5. 完全にやる気をなくしたD3

 就活はやる気がなくなり、大学も原則入構禁止になり研究がストップ。家でできる研究もなくはなかったが当然やる気が出るはずもなくスマブラに明け暮れる日々が始まる。もうこれはしょうがないと完全に賢者モードになってた。

 5月、登録していた就活情報サイトを通して企業から就活してみませんかのオファーが来る。興味のある分野だったので面接と試験を受け無事内定。就活のモチベが完全に消失していたのに拾ってもらえたことは本当に幸運だったので頑張りたいと思っている。しかも博士号が取れなくても内定が消えないことも決まっていた。計3社で就活終了。

 6月、研究室での研究を再開し昨年度末の続きがある程度まとまった結果になった。このときに投稿論文を書き始めていれば問題なく博士修了が可能だった。が、6, 8月開催予定であったTrySailの5周年記念ライブが中止決定、またしてもやる気をそがれる。そもそもこの4年、週末のイベントでエネルギーをチャージして動いていたので、イベントがなくなってしまっただけでなく開催予定に消失されるともう無理なのである。無理なのである。百合子、助けてくれ。

 9月、22/7で倉岡水巴さんの復帰が決まりさらにAnniveraty Live 2020が現地開催された。かなりメンタルを持ち直した。6thシングルの風は吹いてるか?の発売記念オンライントークでは天城さんと話せるようになって楽しかったのもありかなり心穏やかだった。

 10月、9月の充電を使って博士論文予備審査に臨む。(当日は延期した22/7ツアー大阪公演の振替開催予定日だったが結局中止になった)なんとか予備審査を通過して単位取得退学の条件を満たした。このとき投稿論文を書き始めていればギリギリ間に合ったかもしれないがツアーの完全消失を受けて戦意喪失していた。

 11月はそこそこイベントが現地開催され楽しかった。12月はそのおかげで博士論文を何とか書ききって提出出来た。のだが、提出前夜12月23日再び22/7から悲しいお知らせ、リーダー帆風千春さんの卒業が発表された。

 年は明けて1月の博士論文本審査。もうやる気は全く残っていなかったがこちらは10月の予備審査で受けた指摘について回答するような内容だったのでほとんど準備も必要なくなんとかなった(なったのか?)審査終了後、単位取得退学になることについて教授と話した。単位取得退学になるが、とりあえず在学中に論文を投稿して論文が採択されたら博士を取得しようという話になった。

※投稿論文は(英文校正)→投稿→査読者からのコメントと修正要請に対応 を数カ月かけて行うため採択されるまでにまあまあ期間がかかる

 

 さて1月から1カ月程度経ったのが今なわけだが未だにやる気が出ず、あまつさえこんな駄文を書くことに2日かけてしまった。卒業までに論文を投稿することは出来るのか。

ペンディングなんて逃げてばかりいても解決しない。ーー秋元康

 

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単位取得退学に至るまでの自己肯定感遷移

 大学院に入ってからの5年間は、22年かけて貯めこんだ自己肯定感を上手くいかない研究生活で一気に消費して駆け抜けた。0で止まればよかったが過冷却の結果マイナスまでいった。高い自己肯定感を維持するための手札が残っていればこうはならなかったかもしれないことがわかっていただけると思う。研究について身近な人に相談できる環境、支えてくれる彼女とかがいるとたぶんかなりマシになるので博士課程を検討する際の参考にしてほしい。望んで簡単に手に入るものでもないが。

 

 

まとめ

 

本文要約

 一族の学歴は低いが中流とは呼べるであろう家庭に生まれのびのびと育てられる

→ 小学生のときに転勤で大阪のスラム街に流れ着いてしまうが周りの程度の低さに逆に危機感を抱き、勉強した結果高校は無事進学校に合格する

→ 背伸びして入った進学校で授業についていけない高校生活だったが高3の東進で一発逆転し阪大に合格、大学受験を乗り切る

→ サークル、バイト、ちょっと勉強に明け暮れる普通の大学生活。当初目指していた教師は向いていない気がして諦めたが、研究に興味を示し始める

→ 4回生でオタクイベントに目覚め東大院試を受験(話の飛躍がひどい)

→ 無事大学院生になり大学の奨励金に採択され金銭的な余裕も確保したが、研究テーマと相次ぐ推しグループの悲報で精神をすり減らす

→ コロナ上陸、成果がまとまっていないのに研究が止まるし就活も上手くいかないし心の拠り所であるイベントはなくなるしで完全にやる気を失う

→ 息も絶え絶え博士論文提出まではやり切るものの投稿論文を書く気力が沸かないまま大学院生最後の年を越してしまう

→ 単位取得退学に至る

 

総括

  高校受験、大学受験を運よく潜り抜け大学生活も順風満帆であった結果、自己肯定感がマックスになり自意識の暴走で東京大学大学院に進学。そこから研究・イベント漬け生活を通して単位取得退学に転げ落ちていく過程を見てもらった。様々な環境要因が働いた結果であるというのは少なくともわかってもらえたと思う。

 学部卒業までと自己肯定感グラフを読み解くと、僕の原動力は「褒められたい、モテたい」に集約されることに気付く、かもしれない。気付かなかったのであれば意図的に深堀りしなかった甲斐があった。そして関東移住を期にリアルでの人付き合いが減りその対象がなくなった結果接近できるアイドルにハマってしまったという経緯があるがこれに気付けた人はすごい。

  ホワイトな研究室に配属された場合、大学院での研究はとにかくすべて自主的に行わなければならない。研究方針も研究にかける時間もモチベーションも自分でコントロールしなければならない。これが出来る自信のない人はブラックな研究室を選択するか、時間を無駄にしないためにも大学院進学は辞退した方がいいかもしれない。自分の優秀さに確固たる自信のある人はホワイト、防御力とスタミナに自信のある人はブラックを選択しよう。

 

 この話が与える1つの教訓は「バイタリティ管理を不安定なものに依存するのは避けよう」ということだと思う。でもこの世の中に本当に安定なものなんてあるんですかね。原子核かな。

 

 

大学院生活を終えて

 まず初めに誤解はされたくないのだが博士課程進学を選択したことや狂ったようにイベントに通ったことを現在後悔はしていない。文章からは伝わらなかったかもしれないが博士課程での研究は人並みに高い志を持って始めた。誰にでも出来る経験ではないので自分は幸運だったと思う。Twitterでふぁぼも稼げた。こういうメンタルを持っている人は博士で失敗してもなんとかなるので進学もありかもしれない。

 マイナスまで落ちた自己肯定感だが、今は抜け殻みたいな生活ととりあえず大学院を5年間やり切ったという達成感で0まで戻りつつある。就職したら仕事もそこそこ頑張って自己肯定感を高めていきたい。

 長く住んだ大阪を離れて人間関係がまっさらな関東で、Twitterとイベント通いだけで幅広い交友関係が生まれたのも人生を豊かにしたと思う。みなさん出来ればこれからも仲良くしてください。

 

今後の展望

 4月からは社会人になるのでイベント通いは続けつつ、新しい依存先を探す旅に出たいと思います。推し増し活動ではありません、婚活です。マジで結婚してえ。

 

 

 

 お付き合いいただきありがとうございました。ご感想・ご意見など頂けると喜びます。長くなりすぎて推敲するのもめんどくさくなってしまったので誤字・脱字・誤表現など誤謬の類のご指摘でも有難いです。博士のくせにところどころである調とですます調が混ざってて気持ち悪いと思った方がいたらすみません、ミスではなく意図的なものです。

 

※ 本文や僕のTwitterに目を通すとさほど難しくなく個人が特定できてしまうと思いますが、特にやましいこともなく特定して面白いこともないと思うので気にしません。真面目に生きたい。

 

 

 あとせっかくブログを立ち上げたのでたまに更新したいと思っています。こんな長文は2度と書かないと思うので読んでいただければ幸いです。